学校の概要

学校経営計画

学校評価

学校規模

<学級数・児童数 令和2年4月現在>
学年 第1学年 第2学年 第3学年 第4学年 第5学年 第6学年 わかば
学級数 2 2 2 2 2 2 1 13
14 32 16 20 23 23 3 131
22 19 20 24 27 18 1 131
合計 36 51 36 44 50 41 4 262

いじめ防止基本方針

学校の位置

地域の歴史・文化

平林荘と飯沼慾斎

 慾斎がつくった隠居所が平林荘である。ここにドイツの学者シーボルトをはじめ多くの学者がおとずれている。百アール余りの邸内には数百種の草木がうえられている。
 江戸時代のこと。大垣の町医者であった慾斎は50才のとき、長松にうつり、仕事にうちこんだ。日本ではじめて、本格的に顕微鏡を使ってこまかい植物のしくみの解剖図をえがいた。西洋の科学的な植物分類法で、日本の草や木の種類をしらべ、『草木図説 30巻』をあらわした。30年の歳月をかけてなされた大仕事であった。
 慾斎は平林荘で、一日中本を読み草木をしらべ写生をした。「至誠ソノ業ニ居ル」という慾斎の言葉より、学校の教育目標「心をこめてやりぬく」はつくられた。


十六輪中

 十六輪中というのは、大谷川をさかのぼってくる相川、牧田川の水から、十六町を守ろうとして、まわりに「囲い堤」をつくってできたものである。十六町の集落は古くからあり弥生時代には、米作りをしながら人が住んでいた。
 むかしから、十六町辺りは、大雨が続くと相川、泥川がはんらんし、よく肥えた土が田畑に運びこまれ、はんらんした水はすぐ引いていった。ところが地盤の沈降で川の水面と海面の差が少なくなり、川の水が流れなくなった。土砂で川底も高くなり、相川・牧田川が増水すると、大谷川へ水が逆流してくるようになった。そして、江戸時代には十六町を含めた大谷川沿いの田畑は水没するようになった。
 何度も「大谷川に逆水どめと囲い堤をつくる」ことを幕府に願い出たが、なかなか許可されなかった。
 とうとう、1849年、十六村の庄屋だった嘉六郎が村人と囲い堤をつくった。その後、この堤をめぐってもめごともあったが1901年には、さらにしっかりとした囲い堤になった。